滑子航空機,覚書

飛行機好きで、写真を撮ったり、プラモを作ったり。

60年代の国産機たち

 50年代の飛行機紹介に続き、今回は60年代の国産機を紹介したい。 

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50年代と違い、この時代は"売れる飛行機"の開発をすすめていたように感じる。

 

 日大では引き続き、N-58、N-62が開発(ともに現・ジャムコとの共同開発)されているが、N-62はFAAの型式証明まで取得している。

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"N-62 イーグレット"

 N-58は青森県・歴史みらいパークで、N-62は岐阜県・かかみがはら航空宇宙科学博物館でその姿を見ることができる。

 

 そして、62年にはおなじみYS-11が初飛行を行う。戦後の航空機開発をみていると、ここで初めて大型機を開発することになったようだ。

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  これについては、やはり戦前の技術者が多くいたこともあり、大型機そのものを開発することには問題がないと判断したのだろう。

 結果的に機体性能は十分だったようだが、"民間機を開発し、売ること"の経験不足から赤字が続き、生産は182機で終了した。

 

 YS-11の翌年初飛行を行ったMU-2は、三菱の傑作機のひとつだ。

開発期間的にはYS-11とオーバーラップしている。

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 高速性能とSTOL性能を両立させるためにスポイレロンを採用した機体。

為替の影響もあったため最終的に黒字にいたったかはわからないが、87年まで生産され、762機という生産機数は小型機の分野において成功したといえる。

 

 FA-200はスバルが民間向けに開発した小型機で、アクロバット飛行まで可能なことで有名だ。

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 小型機となると、性能はほとんど似たり寄ったりの印象で、おそらくFA-200は低翼で単翼かつ、アクロバットもできる高性能を売りにしたかったのだろう。矩形翼だったりと、コストダウンを図った設計も行われている。

 世界各国で売れ、生産数は299機と少なくない。

 

 そして最後はPS-1。この年代では唯一自衛隊向けに開発された機体で、現在のUS-2につながる飛行艇だ。

 

 60年代は開発機数こそ50年代より少ないが、世界に売れる航空機が現れたことは、航空産業を発展するうえで非常に大きな発展だったといえるのではないだろうか。

 

次はどんな機種になるのかな

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  T-4が3代目となるブルーインパルスF-86時代を超える年数使用されており、最も息の長い機種となっている。

 すでにブルーT-4は退役機が出始めているが、T-4自体にも退役機がでてくるだろう。次はどんな機体がブルーインパルスとして飛ぶことになるのか。

 T-4のブルーインパルスしか見たことのない自分としては、今から楽しみです。

 

飛ばないものは飛ばない

 いまだに世界初の飛行機になるはずだっただの、もてはやされる玉虫型飛行器。

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 カラス型を推していたらまだ納得する。しかしこれはやっぱり飛べないよ。

 

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 玉虫型の形状をほとんど損なわずに飛ぶラジコン模型。S字キャンバー翼でエルロンを装備している。バルサ製の翼は見事だ。

 

 しかし、なんで玉虫型に傾注してしまったのだろう。そもそも、飛行機の原理も、カラスの滑空を見て発見している。この辺りはちょっともやもやする。

 

航空解禁直後の航空機たち

 よく、GHQによる航空禁止令があったから戦後の航空機開発が遅れ、

それが原因で21世紀にいたる現在まで遅れをとっているという人がいるが、

むろんそんなことはない。エンブラエルを見てほしい。

 

 ところで、戦後の航空機開発の変遷は調べてみると面白い。

 下の表のとおりだが、52年の航空解禁後すぐに小型機の開発が始まった。

各年は初飛行の年を示している。(※回転翼機、滑空機等は未調査)

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 戦後初の航空機は新立川飛行機(現立飛ホールディングス)のR-52だ。

機体としては戦時中の95式練習機やR-38の流れをくんでいる。

 R-53とR-HMは、最近立飛で公開されたこともあり見たことある人も多いはず。

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"R-53"

 

 おもしろいのは、日本大学で開発(製作は岡村製作所)されたN-52。

今の日本では考えられないが、大学で航空機が開発されていたのだ。ドイツでいうところのAkafliegみたいなものだったのだろう。

 

 そして富士重工(現スバル)は58年に戦後初の国産ジェット機T-1を初飛行させた。

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"T-1A" 

 

 見てのとおり、50年代は航空解禁を"待ってました"とばかりに11機もの航空機が開発された。飛行に至らず、表舞台にあらわれなかった開発機はもっと多いかもしれない。

 

 確かに、この時点では世界から遅れをとっていたことは間違いないだろう。

 だが、解禁後わずか6年後にジェット機を飛ばすに至った開発スピードは、今では考えられないほどであり、なんとしてでも追いついてやるという意思が感じられる。

 

ちょっと楽しみだったんだけどね

飛行機の撮影に使っているカメラはEOS60DとEOS80Dの二台体制だが、

先日、センサーのゴミetcで悩まされていた60Dの方をようやくあんしんメンテの方に出してみた。

電話一本で大分までドナドナされていった。

 

結果としては、シャッター回数が8万回を超えているということもあり、

シャッターの交換などの修理扱いになってしまった。

費用もなかなか高額だったので悩んだが、今回は修理をすることにした。

もちろん2番機扱いではあるが、これからもガシガシ使っていく。

 

で、楽しみにしていたのが、あんしんメンテの診断書みたいなやつ。

どこに不具合があって、どこを調整しましたって書いているだけなんだが、

修理になってしまったので、結局やったのかやってないのかすらわからなくなってしまった。

 

器用に折りたたむ

いつみても感心するのがT-4とかF-2の主脚の折りたたみ。

JASDF T-4

 リンク構造として複雑であるとか、そういうわけじゃないけど、

胴体にきれいに収まってるなあと思う。

ちなみに、T-4のリンク構造はF-104を参考にしているらしい。

  

 個人的にはF6Fヘルキャットとかの、90°ひねって主翼に収める構造も結構好きです。

 

最終決戦兵器「秋水」設計者の回想

本屋でたまたま見つけたので購入。こういうのは見つけ次第買っていく。

 

最終決戦兵器「秋水」設計者の回想

牧野育雄

光人社

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秋水設計者の回想とあるが、著者はエンジン側の設計者なので、

飛行機としての秋水ではなく、あくまでもエンジン開発の話がメインとなる。

 

著者の当時の日記をそのまま載せているところもあり、当時の設計者の

生活がどのようであったかもわかる点がおもしろい。

この世界の片隅に」とはいかないが、当時の生活、

特に、三菱の工場となれば空襲のターゲットともなっているので、

そのあたりの状況も大変興味深かった。

 

また、三菱と空技廠で仕様違いのエンジンが開発されていたり、

やはりまだ実用にはほど遠かったところなど、設計者視点での話は

なかなか知ることができないので資料としての価値も高い。